作中の人間ならざるものの代表格と言えば、なんといっても小麦畑だろう。
どんなに狡猾な映画制作者ですら嘘をつくことができないほど、いや、嘘をついていないことを証明するためにスクリーン一杯に広がる小麦畑が、観客をあの時代まで移動させる。
こんな空間が、あんな人たちが実際にいたのかもしれない、と信じさせてくれる。小麦畑に舞い込む、汽車や耕作機もダメ押しで、観客を映画の世界に閉じ込める。
小麦畑に舞い込むと言えば、監督のテレンス・マリックが主に写した動物がバイソン、鳥、そしてイナゴ、というのも納得がいく。
これらの動物は監督が到底コントロールすることはできない。せいぜい、あの小麦畑に連れてくることはできても、その先の行動は予測できない。だからこそ、リチャード・ギアが初めて小麦畑に足を踏み入れた先に、どこからともなく出現したバイソンの群れが映画の世界を彩り、鳥が機械の如く感情の見えない目をスクリーンに差し出す時、観客もリチャード・ギアと同じように小麦畑に立っている。
イナゴが小麦を食い散らかすショットを見て、映画の中の人物達と同じように恐れ慄く。嫌な予感を抱く。マジックアワーの小麦畑を埋め尽くすどす黒いイナゴが天高く舞い、スクリーンの中の労働者と同じように絶望を抱く。あのもの達は人間の、映画監督の言うことなど意に介さない。それが分かるからこそ、観客のエモーションは掻き立てられるし、当の監督はきっとほくそ笑んでいただろうと思う。
人間ならざるもの、と言えば自然現象だってそうではないか。
言うまでもなく、マジックアワーの光。紫と黄色が織りなす大気は、この映画の歴史的な価値を決定づけている。
雨が降る前の恐ろしい雲、画面右上の小さな穴から光が通しつつ空一面を多い画面右から中央に向けて地面に脚を広げる未確認飛行物体のような飛行機と、対象的に画面左側に映る太陽光を受ける小麦と青空は、まるで他の惑星から送られてきた衛星写真のような異物感がある。
あるいは炎。どこまでも大きく恐ろしい炎。なぜ恐ろしいかといえば、それまでに確かに実在すると印象付けられてきた小麦畑の上に存在し、かつ手前に人影が、明らかに動く黒い塊が見えてしまっているから。ミニチュアといった小細工ではなく、本当に炎が燃え広がり、どこまでも広がる小麦とともに、どこまでも燃え広がり、人を飲み込んでしまうのでは無いか、と見る者たちを強張らせて、スクリーンを凝視してしまう。