本作の中心である少女アマルは、体長3.5mの巨大な人形だ。人道的悲劇を象徴するアマルは、人形遣いと共にトルコのシリア国境からイギリスまでを徒歩で横断する。「アマル」という名は、“希望”という意味を持つ。
紛争によりふるさとを追われたシリア難民が実際に辿った道を、アマルは歩く。アマルは旅中、ヨーロッパ諸国でときに歓迎され、ときにヘイトに晒される。
ギリシャでは過激なキリスト教徒たちから、「恥を知れ!」と憎悪をぶつけられる。シリア難民の多くは、ムスリムだからだ。中東におけるキリスト教徒迫害の歴史ゆえ、イスラム教徒を疎んじるひとびとも多く存在する。行進するアマルたちにキリストの肖像画や十字架を掲げながら「出ていけ」と怒鳴る彼人らに、「善い朝鮮人も悪い朝鮮人も死ね」と書かれたプラカードを持って四条烏丸を練り歩く在特会(在日特権を許さない市民の会)の会員たちの姿が重なった。
シリア難民排斥運動をTVで目撃した女の子は、「なにもわかってない」と呟く。帰る場所など、我々にはない。そんなものはとうの昔に喪った──ぼくには生まれたときから無かった。
迫害の歴史を軽んじているわけではない。尊厳を蹂躙された過去は、「昔のことだから」で片付けていいものではない。ただ、それと個人はべつだ。いま・ここで生きている、生命の危機に晒され、居場所を求めてさまよい歩くひとびとに、咎はない。日本に生まれ日本で育ったぼくも、周囲の生来日本国籍の日本人をこれっぽっちも憎んでいないどころか、一部のひとたちを深く深く愛している/愛していた。友人や、かつての恋人、現在のパートナーも、そのほとんどが生来日本国籍の日本人だ。
イタリアでは打って変わって、アマルは手厚くもてなされる。フランスではヨーロッパ評議会よりパスポートまで贈呈される。
しかしながらその場面を観た女の子は、アマルへ渡されたパスポートを“希望”とは受け取らない。子どもたちは自らがパスポートを取得する困難さを、よくよく理解している。人形にはパスポートが交付されるのに、なぜ自分には交付されないのか。やり場のない感情をぶつけるように、女の子はアマルの絵を破り捨てる。女の子の悲しみと悔しさとやるせなさに呼応し、アマルは叫び声を上げる。
戦争が奪うのは、命だけではない。思い出、権利、自由、愛するひととの繋がり、子ども時代、ふるさと。時として個人のアイデンティティも揺るがす。戦時中に生きていたひとのみに限らず、そのあとの時代を生きるぼくのような人間まで。