「アマル」と呼ばれる高さ3.5メートルの人形が、同伴者のいない難民の子どもの苦境を知ってもらうためにヨーロッパを横断するというドキュメンタリー。
監督はタマラ・コテフスカ。第19回難民映画祭2024にてオンライン上映された。
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ふるさとを持たずに生まれてきた。
日本と韓国とロシアのミックスルーツで、在日コリアン4世(か3世)に生まれついたぼくは、物心つくころから自分の中の欠陥に自覚的だった。みんなが当たり前に持っているものを、ぼくだけが持っていない。みんなが当たり前に享受しているものを、ぼくだけが享受できない。
それがなにであるのか明確に理解したのは、おそらく帰化をしたときだと思う。自分のことを韓国人だと思ったことは、ついぞない。外登に記されていた本籍地に足を踏み入れたことはないし、朝鮮語も話せない。在日コリアン社会にも愛着はない。
それゆえ20代半ばごろ、日本国籍を取得した。この日本社会で生きていくのに韓国籍であり続けることは、不便でしかないから。許可制への嫌悪感を除けば、帰化に抵抗はまったくなかった。しかしいざ国籍が変わると、形容し難い違和感を覚えた。
日本人である自分に、しっくりこない。喉から手が出るほどに欲しかったはずの日本国籍なのに、いかにも日本人的な名前になった戸籍の本名も、赤色のパスポートも、どうにもすわりが悪い。韓国名と緑色のパスポートと同じくらい。
所属できぬ心許なさを知っているからだろうか、難民と呼ばれるひとびとに自らを重ねずにはいられない。
「ザ・ウォーク ~少女アマル、8000キロの旅~」の冒頭において、シリア難民の女の子が“ふるさと”について想いを馳せるモノローグが繰り返される。ふるさとを喪った不安、ふるさとを忘れてしまう懸念。ふるさとの喪失によって、アイデンティティまでもがぐらつく。
自分はいったい、何者なんだろう。そんな足元の不安定さが、女の子の顔に影を落とす。彼女の抱く寂寥感は、ぼくも骨身に染みて知っているものだった。