【グラディエーターII 英雄を呼ぶ声】神々の遊戯から人間の殴り合いへ

しかし、「グラディエーターⅡ」はどうだろう。編集が作り上げられたスペクタクルな戦闘も多少あるものの、私たちはメスカルが机の上に叩き落とされ、猿の腕に噛みつき、猿に向かって四つん這いになりながら吠え、意地悪な指南役を殴り飛ばす場面をしっかり目に収めている。

編集で作り上げられた「虚構」の戦闘ではなく、ただそこで組み合っているポール・メスカルと敵剣士に思わず感動してしまった。様々な動作を一度に目撃できることに。

とはいえ落ち着いて考えると、それは私たちが生きるこの世界であり、本当は驚くに値しない。しかしここまで見てきたように、実は十分に、いや実はもっと驚いても良いことなのかもしれない。グラディエーターがそこに存在していることに、私たちと同じ世界の延長線上にあのローマ帝国とコロッセオが存在していたことに。

少し脱線して、サルがCGでなければならなかったのは、メスカルが本気で噛みつき、本気で吠えるカットを取ることができなかったための苦肉の策ではないか。本当のサルと戦うわけにはいかない。

あるいは、ヌミビアに侵略する海や船を多少雑なCGで作り上げたのは、船内でオールを漕ぐ奴隷が存在することを示すため、そこに確実に人間たちがいたことを示すためではないか。

なぜ、リドリー・スコットが「グラディエーターⅡ」をこのように作ったのかはわからない。

しかし近作の「ハウス・オブ・グッチ」も「ナポレオン」も、どちらも神話のような世界の人物たちを、最終的には人間臭く凋落してその生涯を終える形で描いていた。もしかするとリドリー・スコットは、終わりゆくキャリアに向けて人間を描きたくなったのかもしれない。(あるいは、単なる老人の遊び、あるいは偶然なのかもしれないが)

いずれにせよスクリーンに映っていたのは、同じことは絶対にしない、という信念だったように見えた。脚本をあえて前作と似た構造にすることで、全く異なる撮り方、編集の仕方、見せ方があるのだ、と言われた気がしてならない。

ふと思い出したが、「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」も化物ジョーカーではなく、人間アーサーを描いている。「インサイド・ヘッド2」も子供という特権的な存在から、大人(いわゆる人間)へと変化していく映画だった。さらに遡り「ゴッドファーザーPART II」も、マイケル・コルレオーネは人間と同じように悩み、ビト・コルレオーネは出自が明かされ、紛れもない人間だったと描かれていた。

一般的に「続編もの」がつまらないと言われることが多いのは、映画が神や神話を描かず、世界や人間となってしまい、私たちに近い存在だとバレてしまうからかもしれない。

しかし、こうは考えられないだろうか。映画の中に人間がいる、人間も映画になることができる。そもそも映画というのは、人間が決死の思いで作り上げた大きな結晶であると。

神を辞め、人間となったグラディエーター。ポール・メスカルあるいは、リドリー・スコットにそんなことを教えてもらった。

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■グラディエーターII 英雄を呼ぶ声(原題:Gladiator II)
監督:リドリー・スコット
脚本:デヴィッド・スカルパ
キャラクター創造:デヴィッド・フランゾーニ
原案:ピーター・クレイグ、デヴィッド・スカルパ
音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ
出演:ポール・メスカル、デンゼル・ワシントン、ペドロ・パスカル、コニー・ニールセン、ジョセフ・クイン、フレッド・ヘッキンジャーほか
配給:東和ピクチャーズ
公式サイト:https://gladiator2.jp/

(イラスト:水彩作家yukko

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映画鑑賞が趣味なんですが、毎回必ず寝てしまいます。映画館で寝落ちしない方法をご存知の方はぜひ教えてください。