他の動作も同様だ。矢を放つ、矢が刺さる、馬が向かってくる、馬がぶつかる。
なぜ本来一つの動作をバラバラのカットにしたのかといえば、私たちにスペクタクルを見せるため、私たちを血湧き肉躍らせるため以外の目的はない。
極端に時間を圧縮して退屈な瞬間を取り除き、「美味しい」カットだけを見せれば私たち観客が興奮できることを、巨匠リドリー・スコットは当然見抜いている。だからこそ伝説的な前作が生まれた。ラッセル・クロウはじめグラディエーターたちが鬼神の如く敵をバタバタと倒す一大スペクタクルが生まれた。
一方「グラディエーターⅡ」はどうだっただろうか。前作に比べると一連の動作を見せることが多いために1カットが長く、ポール・メスカルやペドロ・パスカルが敵と剣を交えて交戦してはいるものの、血湧き肉躍る感は薄まっていたのではないだろうか。
しかし、ここで立ち止まって考えたい。なぜリドリー・スコットが前回の功績を捨てて、今回の編集を選択したのか。それは正に「剣を交える」場面を見せたかったのではないか。
ポール・メスカルが剣を振り上げ、空を舞った剣が相手に振り下ろされ、敵はそれを剣で受ける、あるいは防御虚しく倒される。一連の動作を複数のカットにバラさず、1つのカットに収めることで、「剣を交えている」という事実を観客にまざまざ見せつけたかったのではないか。
さらに象徴的だったのは、ポール・メスカルが双子皇帝の御前で別のグラディエーターと剣を交える試合。先頭のやや中盤、メスカルは敵剣士とがっぷり四つで組み合いながら、右手を伸ばし、相手の左手首を掴もうとしていた。この場面には心底驚いた。彼らが正に戦闘していることをまざまざと見せつけられたからだ。前作では絶対にあり得ない場面。作り上げられた「虚構」ではなく、神の所業でもない。ただそこにいて殴り、倒される「人間」としてのグラディエイターの姿がありありと描かれていたからだ。
もちろん前作でも、カメラの向こうの撮影現場においては紛れもなく戦闘(の演技)は行われていた。また、ラッセル・クロウとホアキン・フェニックスの戦闘のように、長めのカットで撮影されていた場面もあったが、さほど多くはない。