【本心】血の通っていない、人間のかたちをした何か

母のVFは、母なのか

「血の通っていない、人間のかたちをした何か」のうちのひとつは、言わずもがな、亡き母・秋子のVFのことである。

「大切な話をしたいの。帰ったら、すこしいい?」

「本心」の起点ともなる、秋子のセリフである。彼女は息子・朔也への最期の電話で、そう言い残して亡くなった。

秋子の死後、朔也は自分が知らないうちに母が自由死(死を自己決定できる制度)を選択していたことを知る。母の死の理由や本心を知りたいという願いから、朔也は母をVFとして蘇らせる。

VFとは、外見だけでなく会話もできるように仮想空間上に再現された“人間”とその技術のこと。ライフログやメールのやり取り、写真など、生前のあらゆるデータの集積によりつくられ、データが多いほどリアルになるという。

朔也は家にあった遺品だけでなく、秋子の職場の友人・三好彩花からも秋子の情報を提供してもらい、VFに学習させる。

すると、母のVFは朔也の知らない顔を見せ始めたのだ。朔也の出生の秘密など、彼自身が知らなかった事実が、つまびらかにされていく。混乱した朔也は、秋子に対して「誰なんだよ!」と、苛立ちを見せる。

人は、目の前の相手や環境によって無意識的に人格を変化させるものだ。私の知っているあなただけが、私にとってのあなたである。三好が持っていた情報も含め、あらゆる情報を等しく学習した母のVFは、もはや朔也にとっての母ではない。朔也だけが知っている母は、もうそこにはいない。

どんなに精巧につくられていても、どうしたってAIなのだ。あまりにリアルだからこそ混乱する。母そのものなのに何かが微妙にちがう、という決定的な違和感は、強烈な恐怖や寂しさを覚えるだろう。朔也同様に私も混乱し、気持ち悪くなってしまった。

そもそも秋子は、朔也との電話では「大切な話」の内容について明らかにしなかったのだ。どんなにコミュニケーションのツールが進化しても、会ってこそ伝わる温度のようなものは確実に存在する。文字や音声越しでは伝わらないものがある。秋子が伝えたかったのは、そういうものだったのだろう。

ましてやVFでは、母の本心は分かるはずがなかった。所詮、データ学習からはじきだされた予想値でしかないのだから。つらいけれど、死とはそういうこと。どんなに願っても、面と向かい会うことはできないのだ。

AIのように血が通っていない人間たち

驚いたことに、本作ではAIだけではなく人間たちの多くもまた、血が通っていないように私には感じられた。テクノロジーに振りまわされ、人の心を失ったかのような冷酷な人間たち。まるで無機質なデータから生産されたAIかのようで、実に不快だった。

意識不明の重体から回復した朔也は、リアル・アバターになった。カメラ付きゴーグルと依頼者のヘッドセットをつなぎ、遠く離れた依頼者の“身体”となって、要望を叶える職業である。

リアル・アバターには悪質な依頼も届く。自分の手を汚さず、面と向かい合いさえせず、人を人とも思っていないような無茶な指示を出す依頼者たち。生活のために我慢をする朔也。これが現実になるとは到底考えたくない地獄である。ヒトの体温を忘れた依頼者たちは、けれども、彼らだけに責任があるわけではなく、利便性を求めつづけた人間社会の産物なのだ。そう思うと、なんとも言えない気持ちになった。

私が不快さを覚えたのは、あからさまに悪質な人間たちばかりではない。誠実そうに見える依頼者たちもまた同様だ。ある老人は最期に思い出の景色が見たいと言い、朔也はヘッドセット越しに老人の死に際に立ち会う。老人は夕暮れが見たいから、「しばらくそこにいてくれ」と頼む。風が強い日で、朔也は何をすることもなく佇んでいるだけだった。料金を支払ったからといって、富む者のエゴで他者の有限な時間を拘束しつづけることに疑問を感じた。

もちろん、自分ができないことを人に頼むのは自然な欲望にも思える。しかし、それはあくまで疑似体験であり、自分の体験ではない。けれども依頼者たちは、ゴーグルに映る景色を、まさに自分が見た景色そのものだと信じて疑わない。そのピュアな目は、すでに人間から離れている別の何かのようで異常さを感じた。

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S H A R E
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東京在住。コピーライター。好きな映画は「ファミリー・ゲーム/双子の天使」「魔女の宅急便」。