(結婚や出産願望がある)女の人生において、39歳と49歳の意味は大きく異なる。
子どもを産むことを選択肢に持てるかどうか。
願ったから必ず得られるというものではないが、願って叶えられる余地がどれほど残されているかで言えば、39歳と49歳には途方もない違いがある。
一般的には、35歳を超えれば「高齢出産」。女性が妊娠出産する確率は30代後半から急激に低下する。しかし、生殖医療が進んだ現代においては、40歳前後での妊娠出産は決して珍しくない。現に、私は40歳で妊娠し、41歳で出産した。
でも、49歳となると事情は違ってくる。50代で出産する人は国内で年間100人に満たない。
「もう取り返しがつかない」
そんな思いに襲われ、夢の中で49歳の私は発狂しそうになる。
結婚や母になることだけが女の幸せじゃない。それ自体には同意する。
それなのに、それでもなお、年齢やそれが意味するところの妊孕能(妊娠できる力)というやつを無意味なものにし切れないこと、それが悲しい。
どうしても子どもが欲しかったというわけではない。
世の中には、夫はいらないが子どもだけ欲しいという女性もいるが、私はむしろ逆。
私がどうしても欲しかったのは、共に生きると誓い合えるパートナーだった。
それでも私が妊孕能に囚われていたのは、子どもを産めるという「女の価値」を維持することが、男性の「愛」を獲得するために必要な要素だと、どこかでそう感じていたからだ。
実に浅はかな考えだと思うが、それが本心。今思えば、私は愛の何たるかなど知らなかった。
私が「女の価値は年齢とは無関係」と言い切ってしまえるほど気高く強い女性だったらよかったのだが、残念ながらそうではなかった。
なぜって、女が気高く強くあるためには、「自分は愛されている」という自信が必要だから。
誰にも愛されないと予感する女が、気高くなどあれるはずがない。
愛に裏打ちされない人間は、卑屈なのだ。
そしてまた、卑屈だから愛されないという、救い難き悪循環の井戸にはまる。
だから、余計なお説教はいらない。