【ほつれる】一度解いて編み直す作業を、どこかで我々はやらねばならない。

木村の葬式に出席できなかった綿子は、友人の英梨と木村の故郷である山梨を訪ねる。四十九日前だが墓参りだけでも、と訪れた墓地で偶然木村の父に出会い、幼少期の木村の様子を聴く。「木村」という人間の輪郭をなぞるみたいに。確かにその場にいたひとが、ある日とつぜん消えてしまう。しかも自分の目の前で。その喪失を、綿子は持て余していた。

もしあのとき、逃げずに救急車を呼んでいたら。木村のもとに駆け寄っていたら。そんなifがきっと木村の死後、ずっと綿子の頭を駆け巡り続けていた。英梨にさえ木村との関係を打ち明けずにいた綿子は、その混乱を分つ相手も持たない。心の支えを急に失った綿子は、自分が何者なのかさえわからなくなっているようだった。

おそらく綿子は長いあいだ、「自分」というものを見失っていたんじゃないか。モラハラ的言動を繰り返す文則との生活は、いつしか綿子の首を締め上げるようになっていった。文則を元妻や子どもたちから奪った罪悪感。文則の過去の裏切り。綿子は文則といる限り、けっしてそれらから逃れられない。束の間忘れさせてくれる唯一の相手が、木村だった。だから綿子は木村といるときだけは、生き生きと目を輝かせていられたのだろう。

綿子が文則に、生活に、現状に、自分自身に抱いているのは、“諦念”だ。自らの声に耳を澄ませない文則も、夫婦関係を改善ないし断ち切ることも億劫がる自分も、諦めている。

臭いものに蓋をして、見たくないものには目を閉じて、聴きたくないものに耳を塞ぐ。綿子はそうしてこれまでの人生をやり過ごしてきた。でもついに、立ち行かなくなるときがやってきてしまった。木村の死をきっかけに。

木村という男が綿子の人生においてそれほど特別な存在だったかどうかも、よくわからない。文則とだって、最初のころはうまくいっていたのだろう。妻子の存在が目に入らぬほど、文則に溺れた瞬間があったはずだ。しかしここで切り取られている綿子というひとの人生の一部では、木村は確実に特別だった。

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S H A R E
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ライター。修士(学術)、ジェンダー論専攻。ノンバイナリー(they/them)/日韓露ミックス。教育虐待サバイバー。ヤケド注意の50℃な裸の心を書く。